独り占めするにはもったいない話(2020.02.18)

潤徳小学校にまつわるエピソード

潤徳小学校のもう一つのエピソードと、日野市のナンバー小学校の秘密、そして、わが母校のおめでたいお話です。

■ 目次
   ☆ (1)潤徳小学校のエピソード
   ☆ (2)日野市のナンバー小学校の秘密
   ☆ (3)井上’s 母校(小学校)のめでたい話   

(1)潤徳小学校のエピソード

潤徳小学校は、2014年10月5日の台風18号による大雨の結果、校庭が湖と化しました。
突如現れた湖には、青空と、雲と、校舎がきれいに映し出され、まさに"逆さ富士"ならぬ"逆さ校舎"が現れました。

2020年2月18日 2014年10月5日の台風18号通過の翌日
2020年2月18日 2014年10月5日の台風18号通過の翌日

なお、
小学校の名称は、第一小学校、第三小学校などのナンバー校や、日野市平山にある平山小学校など地名に由来する地名校がオーソドックスですが、 潤徳小学校のように私立校のような名称の公立校が他にもあります。「日野市立夢が丘小学校」です。「夢に向かって、やさしく・かしこく・たくましく」を学校の教育目標としています。
潤徳も夢が丘も校名を見ただけで教育理念のようなものが伝わり良いですね。

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(2)日野市のナンバー小学校の秘密

日野市立豊田小学校
日野市東豊田2-14-1

小学校の名称には前述のように、潤徳小や夢が丘小などの他、ナンバー校(例:日野第一小)や地名校(例:南平小=日野市南平)などありますが、 学校の名称といえば、やはり真っ先にナンバー校が浮かびます。
日野市には、「日野市立第一小学校」から「日野市立第八小学校」まで8校、と思いきや 7校しかありません。
「日野第二小学校」がないのです。
統廃合されて無くなったわけではなく、 なぜか2015年に、「日野市立日野第二小学校」から「日野市立豊田小学校」に変わったのです。
確かに日野第二小の前身は「豊田国民学校」で、 所在地も日野市豊田2丁目なので違和感はないとはいえ、1955年に新生 "第二小学校"として生まれ変わってから60年、なぜ昔の名前に戻ったのか、賛否両論があったようです。
60年間積み上げた伝統の「日野市立日野第二小学校」の名前が消えるのは卒業生にとっては複雑な思いがあったと推察されます。
経緯を調べるのも面白そうですね。

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(3)井上’s 母校(小学校)のめでたい話

さて、
ナンバー校の話が出たところで、私の母校(小学校)についても言及したいと思います。
私の出身校は、やはりナンバー校で、「東京都足立区立千寿第五小学校(略称:千五小)」です。



足立区立千寿第五小学校

千五小 卒業アルバム
千寿の"寿"が旧漢字の"壽"になっている

「千寿第五小学校」の「千寿(せんじゅ)」は「日光街道の千住宿」、「JRの北千住駅」等の「千住(せんじゅ)」と同じ意味を持ちます。
ちょっと気取った表現というか、昔祭礼などめでたい場合や縁起を担ぐ場合などに「寿」を使った表現があったようで、学校もそれに倣ったようです。
私の元の住所は足立区千住八千代町ですが、千寿第五小学校の「千寿」には全く違和感がありませんでした。同級生、父兄の思いも同じだったと思います。

千五小の当時の学区域は、
千住高砂町
  昔結婚式などに必ず歌われた
  「たーかーさーごーやー(高砂や)
   こーのーうーらーふーねーにーほーをーあーげーてー(この浦舟に帆を上げて)」
  という謡曲にあるように、高砂は縁起の良い名前で、小学校の所在地でもあります。
千住末広町
  高砂町の隣町。末広がりで縁起の良い名前です。
千住八千代町
  千五小のある千住高砂町から見て日光街道(現国道4号)の向い側の町です。
  これも千代に八千代にと国歌でも歌われているように、千年も八千年も続くようにとの、
  これまた縁起の良い町で、私が住んでいた町です。
千住梅田町の一部
  八千代町の北隣りの町。縁起の良い「松竹梅」の一つ「梅」を冠しています。

このように私はめでたい町・学校に囲まれて育ちました。

そして、
千寿第五小学校は、2013年4月に、「足立区立五反野小学校」と統合し、「足立区立足立小学校」となりました。

【左】新校舎ができる間、旧千寿第五小学校校舎を足立小学校として使用(仮校舎など増設)
【右】2015年(H27年)4月 旧五反野小学校跡に新校舎が完成、開校しました

長年慣れ親しんだ"千五小"が無くなったのは寂しい限りですが、児童減少に伴なう統合の結果ですのでやむを得ないし、足立区にある"足立小学校"ということで非常に大きな名前に生まれ変わったのを良し、としたいと思っています。

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